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Cold Spring Ruin   Pastel on paper  Akiko Hirano

平野明子 & Tim Wong

夕暮れ時、雌鹿は峡谷の側面を用心深く下りて水場に向かった。最後に降った雨で残っている唯一の水。彼女は捕食者(略奪者)がその辺で待っているかもしれないことを知っていた。ウオッシュ(谷間の水がたまに流れるだけの川底)の端の茂みの後ろで立ち止まり、耳を立て、辺りを見渡している。動きはないが、満月の上昇で暗い影が投げかけられている。完全な静寂。喉の渇きが彼女をいつもより大胆にした。彼女は水溜りに向かって無防備に歩いた。最初の2-3くちがあまりに美味しかったので彼女は完全に警戒を緩めた。突如、鋭い爪が彼女の横腹に突き込み、強力な顎が彼女の首の後ろを締めつけているのを感じた。

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The Deer Skull   Photo  Tim Wong

黒衣(くろえ)が水場に出くわしたとき、鹿の残骸は、胸郭の一部が付いたまま脊柱から分離された頭蓋骨だけだった。水場は干上がり、動物の足跡が交差する泥だらけの水溜りだった。鹿、コヨーテ、アライグマの足跡に混じって、コヨーテの足跡よりも大して大きくなく、紛れもない若いマウンテンライオン(クーガー、ピューマ)の爪のない足跡が際立っている。黒衣は注意を喚起し、背後を警戒し続けていた。峡谷を下り続ける前に、彼女は水筒から一口水を飲んで、後どれだけ水が残っているかを心に留めた。この乾燥しきった土地では、生と死の境は紙一重で、水がその鍵を握る。

黒衣は、草の茂みやサボテンの群れを通りながら別の峡谷を登り続ける。陽射しが次第に強くなってきた。周りの風景がまるで白熱の塊(かたまり)に干上がってしまったようだ。彼女は、水筒から最後の一口を飲み干すべきかどうか思案しつつ、ためらった。それは丁度彼女が、サイドキャニオン(横道にそれた峡谷)に通じる、散在した岩の隙間を流れ落ちる水のシミを見たときだった。彼女はよじ登り、近づいて行く。その岩の隙間から、広々とした隠れた谷間、それはスタジアムほども大きな‘円形劇場’、へと道が開く。威厳に打たれた黒衣は、大聖堂に侵入したような気分で、ゆっくりと足を踏み入れた。巨大な張り出した岩のアーチに引き込まれ、頭を傾けて‘砂漠のしみ’(と呼ばれる黄、オレンジ、赤、黒色などの筋が縞模様になって現われた岩肌)を眺めている。と、そこに石の建物が見えた。深いアルコーブ(洞窟、空洞、洞穴)の遠端にアナサジインディアンの遺跡があった。

その全盛期には、ここは長いアーチの基盤に建物が密集した、かなり大きな村だったに違いない。建物の残骸が土の上に散在していた。何十もの手形の列が後壁に描かれ、赤または白の色合いで家族が分類され、峡谷の所有権を通告しているかのようだ。巨大な岩塊の岩面には、トウモロコシの粉砕に使って磨耗した窪みが一列に並んでいる。かなりの人数を養うために、肩を並べて働いている住民達の様子が想像できる。黒衣はアーチの基盤に沿って一番高い地点まで歩いた。保存状態の良いキバ(地下の儀式用建物)がアルコーブ(洞窟、洞穴、空洞)の縁にあり、換気口は元のままの状態だった。そこから、黒衣は、彼女が登って来た唯一の入り口と、その遥か向こうの川底の方を向いて、流域全体の壮大な景色を一望の中に収めた。ここは彼ら集団にとってとても望ましい場所だった。

そのキバの後ろに、住民はアルコーブの内部を守る石と泥(漆喰)で防護壁を作った。その壁の後部で彼らは一体何を守っていたのだろう?崩壊した壁の間から侵入するや否や、黒衣は暗闇の中でかび臭い冷たい空気に巻き込まれた。その推移はあまりに突然で、まるで別の世界に足を踏み入れたかのようだった。彼女はサングラスを外し、薄暗い光の中で、細かい砂で覆われた大皿の形をした洞窟に立っていることに気付いた。洞窟の奥深く、屋根が地面に向いて湾曲している後壁に沿い、豊かでみずみずしいシダの群れが魔法のように発芽していた。シダから滴り落ちる水が浅い水溜りに集まって行く。防御壁の外側にあるプエブロ(村落)とは異なり、洞窟内の空間には構造物がまったく無い。絵文字、手形、調理器具、ひとかけらの陶器の破片すら見当たらない。水場(水溜り)だけを崇める完全に‘無’の空間。

黒衣は数歩進んでしゃがみ込み、浅瀬に指を浸し、乾いた唇に触れた。その時初めて、彼女はその日ほとんど水を飲んでいなかったことを思い出した。空の水筒を取り出し、さらに深い所の水を求めて前かがみになる、が、途中で動きが止まった。彼女は凍りついた。別の記憶がよみがえる。ほとんど感知しないまま、彼女はゆっくりと頭を回し、背後を一瞥した後、水筒を水中に滑り込ませた。

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The Spring   Pastel on paper  Akiko Hirano