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侘び寂び - 見えないものを見る

 

Tim Wong, Ph.D. & 平野明子, Ph.D.

 

侘び寂びを物理的に定義することは、チョコレートの味を形や色で説明するようなものです。

Wong &平野

 

Wabi Sabi aesthetic - seeing the invisible

Tsukubai  silver-gelatin print  © Tim Wong

「侘び寂びとは?」日本人にこの質問をすると、長い沈黙が続くでしょう。しかしアメリカ人に同じ質問を投げかけると、答えはしばしば速く確実です:「それは不完全なものの美しさです!」なぜ西洋人には簡単に伝わるように見える、”侘び寂び”の意味の答えを求めて、日本人は苦闘するのでしょう?彼らはまったく別の答えを探しているのでしょうか?

 

古典的な「茶の本」の著者である岡倉天心は、「翻訳は、せいぜい錦(金襴緞子)の裏側しかできません。すべての糸はそこにありますが、色やデザインの繊細さはありません」と書いています。これをよく説明している例が、日本の”侘び寂び”の概念です。西洋人は”侘び寂び”を、物理的特徴(不完全さ、粗さ、老化と風化した外観など)と関連付ける傾向があります。”侘び寂び”はこれらの性質を包含するかもしれませんが、これらの特徴は、概念の本質を伝えるのに十分でもなく、適当でもありません。”侘び寂び”は、物理的な特徴に固定はされておらず、むしろ外観を超越する、深遠な美意識なのです。それは感じることができますが、言葉で表現されることはめったにありませんし、定義もされていません。”侘び寂び”を物理的に定義することは、チョコレートの味を形や色で説明するようなものです。すなわち、物理的な面に焦点を当てている限り、その本当の美しさは隠れたままで、錦(金襴緞子)の裏側だけを見ている宿命にあります。その真の姿を見るには、外観を超えて内部をしっかり見なければなりません。

侘び寂び(侘寂)、という用語は、日本人と中国人が共有する2つの漢字で構成されています。もともと、侘、は「落胆」を意味し、寂、は「孤独」または「独居」を意味します。これらは感情を表現する言葉であり、物体の外観を表す言葉ではありません。この用語は、古代中国の芸術や文学の、明らかに洗練された美的感性を具体化しています。禅仏教、文学、茶道の導入を通じて、この概念が日本で普及するずっと以前のことです。アジア人はこの美的感覚を持って生まれたわけではありません。彼らは古典文学、筆塗り、そして特に詩に長期間触れることでそれを発展させてきたのです。 8世紀の中国の詩人CheungChi張繼によるこの有名な詩を考えてみてください。

 

Japanese wabi sabi aesthetic

Crow's Caw  silver-gelatin print  © Tim Wong

月落烏啼霜滿天

江楓漁火對愁眠
姑蘇城外寒山寺
夜半鐘聲到客船

月落ち鳥啼きて霜天に満つ、江楓の漁火愁眠に対す。

姑蘇城外の寒山寺、夜半の鐘声客船に到る。

夜が更けて月は西に傾き、鳥が鳴き霜の気が天に満ちている。漁火の光が運河沿いの楓の向こうに見え、旅愁を抱いて眠れないでいる私の目にちらちらして見える。姑蘇城外にある寒山寺から夜半を告げる鐘の音が響きこの舟にまで聴こえてくる。(現代語訳、左大臣光永)

川で孤独な夜を過ごしている作者が見た、この暗く物寂しいメランコリックな風景像も、又穏やかで静かです。同様の雰囲気が、18世紀の日本の詩人与謝蕪村によって次の俳句に書かれています

 

山寺や撞きそこなひの
鐘霞む

山の寺院から

鐘が鳴り響く音が

霧の中で消えていく

Yamadera Mountain Temple

Mystic  silver-gelatin print  © Tim Wong

このような詩は、奥深い個人的な美意識、孤独と静けさがほろ苦くミックスし、物理的な妨害から解放されて、気落ちした気持ちを呼び起こします。”侘び寂び”とはこういう風な感じで、焦点の向きを、外見から内部へ移す事に寄ってのみ経験できます。日本人が”侘び寂び”を説明するのに苦心するのも不思議ではありません。彼らはそれどのように見えるかだけでなく、それどのように感じられるかを伝えようとします。

 

もちろん、この美的意識はアジア人に特有のものではありません。アメリカの写真家ウォーカー・エヴァンのアラバマ州農家屋内の写真、ハンガリー人写真家アンドレ・ケルテスの無人の椅子にかかる影の写真、あるいはニューメキシコ州アビキューにあるジョージア・オキーフの家の中庭を見ることで、同様の美的意識を認識することができます。これらのアーティストは、彼らの個人的な感情を、相互に理解することで、聴衆に話しかけています。そのようなつながりは偽る事ができません。一般的に、誤って解釈されていることは、アーティストはある特定の視覚的ヒントを、観客に故意に与える事で、観客との共鳴を作り出すことが出来る、と信じていることです。作品がアーティストの真の感情を表現していない限り、その効果は鋭敏な目には単に虚ろに見えるだけです。

 

”侘び寂び”は、表面的な外観によって定義される表現法ではありません。それは美学(美的理想)であり、静かで敏感な心の状態であり、目に見えないものを見ることを学び、不必要なものを取り除き、どこでストップするかを知ることによって達成できます。

 

 

この記事は、2007年9月にTHEMagazineに最初に掲載されました。

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