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Into the Canyon  Pastel on paper  Akiko Hirano

激流
平野明子 & Tim Wong

最初の‘とどろき’はとてもかすかに聞こえ、彼女は夢を見ていると思った。峡谷の奥深く、小さなテントの中に心地よく身を忍ばせていた彼女は、寝袋を引っ張り顔にぴったりと添え又眠りに落ちた。

二日前、黒衣(くろえ)は真っ青な空の下、この峡谷の河口に立っていた。彼女はこの時期が大好きだ。過酷な夏の暑さは去り、朝はすがすがしくそれほど寒くない。眼前には、峡谷周縁が集まって巨大な漏斗のように急降下し、それが螺旋(らせん)状になって峡谷の赤い岩の内臓部に消えて行く姿がある。水で滑らかに磨耗したスリックロック(滑らかな岩)の層が重なり合い、この雨の少ない地には矛盾しているように見える。予報では、雷雨が散在する可能性少しあり。彼女は空を見たが、雲ひとつ無い。テントを車に残し、少し多めの水を持って行こうと考えたが、又車に戻るのはあまりにも面倒だと判断し、重いリュックを背に彼女は峡谷の縁から‘漏斗’に降り始めた。

”ドカーン!”黒衣は耳をつんざくような雷と、目がくらむような閃光に揺さぶられて目覚めた。ビクッと起き上がり、ヘッドランプを探す。数秒以内に、雨滴がテントを叩き始める。『リュックサック!リュックサックをテントの中に入れなくちゃ!』彼女は寝袋から身をよじってブーツを引っ張り、外へ這い出す。一走りしてジュニパーの木にぶら下がっているリュックを掴み、テントに飛び込む。”ドカーン”、ゴロゴロ!”さらに目がくらむ閃光。風と雨が荒れ狂い、バケツ一杯量もの雨がどしゃ降り、テントは揺れている。”ドシン!”と響く音は次第に途切れる事のない怒号となる。彼女はレインフライ(テントを覆うカバー)をしっかり固定し、テントの床の水を拭き取り、乾いた保温下着に着替え、寝袋を巻きつけて座っている。テントの天蓋にぶら下がっているヘッドランプが激しく揺れる。泥だらけの水が外を渦巻き、テントの中はすべて湿っぽい。彼女は時計を見た。午前3時。


夜明け。雨は止み、空はまだ曇っていて、時折鳴り響く音が遠くに聞こえる。空気はすっかり冷たくなった。黒衣は上着を着て、前日に水を集めた水溜りに歩いて行く。そこは泥だらけの混乱状態に変わったいた。少量の残っている水で彼女はインスタントコーヒーとオートミールの朝食を摂り、所有物と水浸しのテントを詰めて、峡谷から抜け出る長いハイキングを開始した。

峡谷を踏み歩く黒衣は、雨で変貌した辺りの風景を見る。すべての岩の亀裂や溝から水が滴り落ちている。砂地のウォッシュ(谷間の水がたまに流れるだけの川底)は湿っているが、それほど泥だらけではない。すべての色が強調され、赤い岩は赤褐色と赤紫(ワインカラー)の色合いを呈し、ジュニパーは深緑色で、ビーバーテールサボテンは翡翠(ひすい)のようにほぼ半透明。低くかかる雲から青空が所々見え、ピニオン(松ノ木)の針から滴り落ちる水の玉は朝陽に輝いてまるで宝石のようだ。ほこりを洗い流した砂漠のデイジー(ヒナギク)が、自然色(アーストーン)で染まる峡谷の庭を飾る。黒衣は、この美しい峡谷を初めて見たような気がし、悲惨な夜の出来事を忘れて気分が高揚した。彼女はゆっくりとした足取りで、「デイジー、デイジー、あなたの答えを教えてください...」と静かに口ずさみながら歩いていた。

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Photo  Tim Wong

そのときだ。浜辺に向け突進して打ち寄せる遠くの波のような音、ただもっと荒々しい音、を彼女は耳にした。音は峡谷の壁の周りに跳ね返り、どこから来ているのかわからない。彼女はじっと耳を傾ける。音は次第に大きくなり、枝がバリバリ、バチバチ、ゴロゴロ、メリメリ。。。と割れ、砕け。。。それが何であるかを理解して走り始めた瞬間、錆びたオレンジ色の洪水の激流が、彼女に向かって砕ける波が突進してくるように、乾燥した滝の縁を飛び越えた。彼女は右手に疾走し、岩の側面をよじ登る。トレッキングポール(ハイキング用杖)が岩と交差し、カーンカーンと音を立て、野生動物のように暴れ回る激流が彼女のかかとをつかむ。泥と水の壁がウオッシュを突進し、木の枝やボウリングボールの大きさの岩と一緒に‘泡立ちの暴動’の中へ引きずり込まれる直前に、彼女は傾斜した岩棚に身を投げ入れた。これは狂気の沙汰。数分のうちに、彼女の下の方の浅いくぼ地は渦巻く破片の泡立つ水溜りに変わった。それはすぐに縁まで満たされ、峡谷にこぼれ落ちる。震え、息もつけず、黒衣は岩棚にしがみつく、峡谷からの彼女の出口は塞がれてしまった。彼女にできることは、洪水が治まるのを待つことだけ。

正午までに、洪水の名残りは浅い水溜りとスリックロックを覆う泥と砂だけとなり、まるで峡谷には何も起きなかったかのように、穏やかで平静を取り戻したように見える。でも、黒衣は知っている。峡谷の、自然の神秘を垣間見たのだ。滑らかで官能的な岩壁の曲線は、自然の凶悪な力、‘抹殺と更生’を物語っている。生命を与え、それを一瞬のうちに撤回することができる気まぐれな気質。なんと皮肉なこと、そして、それはまさに人生そのものを物語っている!彼女はリュックを持ち上げ、峡谷を登る。血のように赤く染まった水たまりの上を跳び越えながら。

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Flash flood   Pastel on paper  Akiko Hirano