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Three Sisters Ruin   Pastel on paper   Akiko Hirano

三姉妹
平野明子 & Tim Wong

「ワ~、これは行けそうにない!」 アリゾナ州セドナの北の峡谷をハイキング中、黒衣(くろえ)は双眼鏡で1マイル離れた高い崖を見ていた。 高さ数百フィートの暗赤色の岩の帯が彼女の行く手を阻んだ。 その障壁の背後には、黄金色のココニノ層(地質学の名称で、ココニノ砂岩といわれる地層)の控え壁が青空に向かって更に千フィートそびえ立っていた。 そのあたりのどこかに古代の崖住居が隠れている。黒衣は、この赤色積層帯を通り抜ける唯一の道と思える狭い隙間に双眼鏡の焦点を合わせた。 隙間は 3 つの高い岩塔で守られていた。 彼女はそれが“三姉妹”であることに気づいた。 彼女は双眼鏡をはずし、サボテンやとげのある灌木の茂みを注意深く避けながら岩塔に向かって登り始めた。 斜面は、まるで波が砕けるかのように押し迫ってくる。 彼女は右に進み、突き出た岩層を乗り越えようとしたが、その先は行き止まりだった。 振り返り、左手にかろうじて進める場所を見つけた。 傾斜はさらに厳しく、一歩進む度に緩んだ岩石が斜面を転がり落ちる。“ 三姉妹”は巨大な見張り番のように彼女に迫って来た。 彼女はCatclaw やCrucifixionの灌木のトゲが生い茂った狭い隙間を通り左の岩塔の周りを迂回した。 フーフーと息を吐きながら、彼女は厄介な灌木のトゲの茂みをすり抜け、自分が隠れた懸谷(けんこく)、にいることに気づいた。その谷は両手で形作ったお椀のような赤い崖に抱かれ、岩肌は黒っぽい砂漠のニスが縞模様で描かれていた。 彼女は秘密のシャングリラに迷い込んだような気分になった。 大きく張り出した洞窟には古代の遺跡があった。

それは細長い長方形の建物で、隣接する 3 つの部屋があり、各部屋には四角い出入り口があった。 屋根はとっくに失われていたが、壁は驚くほど良い状態だった。 出入り口の 1 つにはまだ木製の横木がついていた。 部屋の上部の洞窟の岩壁は薪の火で黒くなっていた。豊富な鉱物の岩肌からの浸出液で黒い煤煙に幻想的な模様を描いている。 黒衣は瓦礫の中から、いくつかのフリント(石の道具)とともに、良い大きさのトウモロコシの穂軸をいくつか見つけた。 部屋の隅で、彼女は扇状に広がった繊維と鋭くとがった先端を持つ 3 つの珍しい物体を見つけた。 繊維はさまざまな色の鉱物で染色されていた。 彼女はずっと後になってから友人から、それがユッカ(イトラン)の葉一枚一枚で作られた筆であることを知った。

Yucca paint brushes   Photo  Tim Wong

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Morning Star pictograph   Tim Wong

遺跡は、崖から流れ落ちる雨水によって灌漑された、平らな土地を見下ろすところに建てられていた。 彼女はそのわけを探ろうと振り返ると、洞窟の入り口の隙間から覗いている“三姉妹”の頭上を捉えた。 彼女は“三姉妹”の伝説を思い出した。一人は背が高くてなびく金髪、もう一人はふくよかで背が低く、三番目は細身で依存性が強く、これは主要作物のトウモロコシ、カボチャ、豆を表している。 確かに、ここは作物を植えるのに適した場所だったのだろう。 彼女は洞窟の後方に歩いて行き、壁のあちこちに描かれた白い絵文字を見つけた。 人の形、蛇、手形の中に、白で縁取られた白い十字の非常に特徴的な絵文字。 彼女は別の場所でそれを見たことがあった。それは明けの明星のヴィーナス(金星)、シナグアインディアン文化の事実上の象徴であった。

西暦約 500 年から 1,425 年まで、シナグア インディアンはフラグスタフの東からセドナを含むベルデ渓谷までの地域をカバーする広大な領土を占領した。 彼らはある種のホピ族の祖先だった。 ホピ族の口承によると、“水の一族”はパラトクワピと呼ばれる南部の赤い岩の場所から来たとされている(1)。パラトクワピの正確な場所については議論が続いているが、セドナが赤い岩の場所である可能性を示す興味深い手がかりがある。 明らかに、ホピ族はセドナ地域のことを知っていた。 1583 年、スペインの探検家ははるか西に豊富な鉱床があることを聞いた。 彼らはニューメキシコ州のズニ・プエブロからホピのメサまで旅した。 友好的なホピ族は、セドナの西にあるジェロームの鉱山へ向かう何世紀も昔の道を彼らに案内した。 ジェシー・ウォルター・フュークスは、1895 年にセドナ周辺のシナグア遺跡を記録した最初の考古学者である。おそらくパラトクワピのホピ族の伝説に触発され、彼は主要な遺跡の 1 つをパラトキ、レッド ハウスと名付けた(2)。

スペインの探検家がホピからジェロームまでたどった歴史的なルートは、パラトクワピ トレイルである。 ホピ メサから現在のウィンスローまで南に向かい、その後南西に向きを変えてモゴヨン リムを下ってベルデ渓谷に至り、その後西に向きを変えてセドナとジェロームに向かった。 このトレイルはベルデ渓谷のいくつかの主要なシナグア集落を通ったが、最も興味深いものの一つが“モンテズマ源泉”である。

風の強い日、黒衣はモンテズマ源泉の駐車場に車を停め、青緑色の水で満たされた大きな火口の縁まで舗装された道を歩いた。モンテズマ源泉は、地下の泉によって供給される大きな陥没穴。 砂底から湧き水が浸透し、毎日 150 万ガロンの淡水が源泉に補充され、その水はビーバークリークに流れ込む。 西暦 900 年から 1,400 年頃にかけて、シナグアインディアンはこの源泉の下の至る所に岩石の住居と穀倉を建てた。 火口を見下ろす崖の上にはかなり大きな住居群が設立された。 彼らは周囲の農地を灌漑するために何マイルもの運河を造った。 この地域は定住するには理想的な場所だったに違いない。 モンテズマ 源泉からほど近い場所にある多数の様々な岩面彫刻が、この地域が旅する者達の拠点であったことを示している。 実際、特別に彫刻された石板の一部が、岩の亀裂に意図的に置かれており、それはここからほぼ100マイル北にある北シナグアインディアン住居群(ウパキ)から見える、神聖なるサンフランシスコ山頂の稜線と一致する陽の影を落とすように図られているのだ(3)。

西暦 1,425 年までに、シナグアの人々はその地域全体を放棄し、ホピ メサに移住した。 おそらく最大の謎がここにある。 当時の長期にわたる干ばつが、南西部住民の大規模な移住を引き起こしたと広く信じられている。 もしそうなら、なぜシナグアの人々は、一見無制限に水が供給できる場所から、乾燥したホピのメサに移住したのだろう? 黒衣は火口の縁に立ち、シナグアインディアンの創意工夫に感嘆しながら、この問いについて考えを巡らせた。答えはこの強い風で吹き流されてしまったかもしれない。

1.  ハリー・C・ジェームス。 1988年。ホピの歴史のページ。 P.22~25。

2.  ジェシー・ウォルター・フュークス。 1899。1895 年のアリゾナへの考古学遠征。P.553-557。

3.  ケニス・J・ゾル。 2008. シナグア サンウォッチャー: V バー V 遺産と神聖な山盆地の考古学調査。

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Montezuma Well Ruins   Pastel on paper   Akiko Hirano

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