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The Matrix   Pastel on paper   Akiko Hirano 

リボンと蝶

平野明子 & Tim Wong

「展示場に入る前に靴を脱いで下さい。中での飲食は禁じられています。大声で話すのはご遠慮下さい」、豊島(てしま)美術館の入り口の外で待つ来館者に職員は規則を語った。美術館は“マトリックス”(日本語のタイトルは“母型”)と呼ばれる単一の展示物を中心に建てられていて、日本人アーティスト、内藤礼が、建築家の西沢立衛の協力で創作した巨大な傑作作品である。黒衣(くろえ)は瀬戸内国際芸術祭の一環として、瀬戸内海の離れ島、豊島(てしま)にこの展示を観にやって来た。彼女は午前中の大半を来館者の列に並んで過ごした。30分ごとに数百人の来館者のうち、わずか15人が展示場に入館できる。

 

小さな入り口から入った黒衣は、オリンピックサイズのプールをも収容できる十分な大きさの巨大な長方形の球に、自分自身が包まれていることに気付く。息を呑む光景。視覚的な驚きは単にそのスケールの大きさだけではなく、視覚の基準となる物が欠如していることからも生じる。巨大な、閉じられた囲いは完全に空(から)で淡白色に仕上げられ、半球形の屋根は四方八方に湾曲し、単色の地面と継ぎ目無く融合し、彼女の距離感を混乱させる。唯一の色は天井の青いパッチ、それが実は楕円形の開口部を通して見える空である事に気付くのに少しの時間を要した。開口部からぶら下がっている白いリボンの輪がそよ風に舞い、唯一の動きを示す。閉じられた囲いで気の散漫がふさがれ、彼女の感覚は鋭くなる。。楕円形の窓の額装の中、漂う雲は一層美しい。地面に映る彼女自身の影を、まるで今まで見たことが無いかのように凝視する。その時、初めて水に気付いた。地面の小さな穴から魔法のように実体化し、水銀の細粒のように透明な液滴を形成し、それがゆっくりと成長し小川になり、様々な方向に滑り、最終的には他の目に見えない穴に消え、流れた場所には痕跡を残さない。水と白いリボンの動きに魅了されている自分に、彼女はおかしくなった。おそらく、アーティストの意図は、風、雲、水滴など、普段めったに気付く事のない自然界の平凡な美しさを見るために、この空間と隔離を提供することにあるのだろう。この思いを瞑想しながら、彼女は自分が訪れた別の場所を思い出した。

 

数年前の春、黒衣はユタ州の名のない峡谷でアナサジインディアンの遺跡を探し、ウオッシュ(谷間の水が、たまに流れる川底)をトレッキングしていた。峡谷はどんどん深く、狭くなり、両側の峡谷が圧縮し、行き止まりのように見えた。彼女が近づくと岩壁は狭い通路に挟まれ、急に横に曲がり、その入り口は茂みに覆われていた。彼女は通路をくぐり抜け、サッカースタジアムのような大きな隠れた峡谷に出た。彼女はそこで目にしたものに畏敬の念を抱いて立ちすくんだ。峡谷全体を占める深いアルコーブ(洞窟)、その巨大なアーチは完全な虹のように高く湾曲し、数百ヤード離れた遠端に達していた。反射した日光が、暖かいサーモンピンクの輝きで閉ざされた空間を溢れさせていた。彼女はゆっくりとアルコーブの砂地を歩き、厳粛な寺院に入っていくような感覚にとらわれた。完全な静寂の中で、後壁に響き渡る彼女の足音がゴロゴロと鳴る機関車のように邪魔に聞えた。

 

アルコーブの全長を歩くのに数分かかった。人工の建造物も絵文字(インディアンが残した)もない、ただあるのは、鉄砲水で押し流され散乱している瓦礫や岩だけ。アルコーブの遠端で、涼しい日陰の平坦な岩に彼女は座り休んだ。とても静かで、自分の胸の鼓動が聞えた。どれだけの長い時代を経て、風と水がこのような場所を形作ったのか、彼女は驚嘆の思いであった。しかも何人の人がそれを見ただろう。このような疑問を熟考しながら、彼女の眼は峡谷を舞う小さな白い蝶に引き付けられた。蝶は黄色いタンポポの花に一瞬止まり、峡谷を下り続けて岩壁の向こうに姿を消した。からの三日月形の青空を残して。彼女はあの蝶と何ら変わらない自分を思う。ランドスケープ(風景、地形)の一部としてひと時ここにやって来て、跡形も無くここを去る。

 

美術館職員の時を告げる声が黒衣を現実に引き戻す。彼女は、青空のパッチに向って風にたなびく細い白いリボンを見上げた。彼女の想いが二つの経験をくっきりと浮き彫りにした。美術館の展示では、日本の石庭でのように、構築された環境の中で自然を見、彼女が実際、観察者であることを自覚する。ユタ州南部のあの名のない峡谷では、彼女の“自我”はもはや存在しない。彼女は自然の“自然な美しさ”の一部と化する。

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Cavern in a Hidden Canyon

Pastel on paper   Akiko Hirano 

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