Touching Stone Gallery
米国ニューメキシコ州サンタフェ
Lucy Pastel on paper Akiko Hirano
ルーシー
平野明子 & Tim Wong
日本に戻った黒衣(くろえ)は、アリゾナ州チルチンビトでナバホ族と暮らしていた日本人写真家、東太の本に出くわした。トレーシーは、祖父ミルトンと祖母ルーシーが率いる羊飼いの一家。黒衣はこの一家を探し出す決心をする。それは容易な事ではない。 チルチンビトはナバホ族集団の北東の角に位置する過疎の砂漠地帯、家の多くは未舗装の迷路のような道路に沿って点在しておりそれぞれの住所を持たない。
1989年夏。黒衣はアリゾナ州ケヤンタ近くの裏道をレンタカーで走り回り、東太の本にあった写真のランドマークを探した。彼女は羊の群れを放牧している祖父ミルトンの写真に写っていた、独特の形をした岩山を見つけた。その方向に向きを変えた黒衣は、一人の女性が植物に水をやっている家の傍を通りかかる。車を止め、トレーシー家についてその女性に尋ねた。女性は彼女に複雑で込み入った方角を告げた。それからの1時間、黒衣はその辺りの未舗装の道路をあちこち交差し、道に迷っては最初からやり直す、と言う動作を繰り返した。その間、細かい赤い砂に車を突っ込まないよう祈りながら。彼女の捜索はついに荒涼とした砂漠に囲まれて建つ粗末な数軒の家の前で、終わりを遂げた。外で10代の少年が遊ぶのを止め彼女をじっと見ている。 「ここはトレーシー家のお家ですか?」黒衣は運転席から頭を突き出して尋ねた。少年はそれに答える代わりに、直ぐ傍の家へ走って行った。しばらくして、困惑し不審そうな顔をした女性が出てきた。
黒衣は、「東太さんの本であなたの家族のことを知りました。ただあなたに会いたく、ここまでやってきました」と自己紹介した。女性は‘東太’という名前を聞くとすぐにリラックスし、 「東太はもう何年も私たちを訪ねてきません。私はバーサです。中へお入りください」。
黒衣は、家族の写真が飾られ家具がまばらに置かれた、長方形のプレハブの家に足を踏み入れた。 あの10代の少年が再び現れた。 「アーネスト、私の息子よ」とバーサは紹介した。すぐに、大家族の他のメンバーも加わり、皆、遠くからやってきた思いがけないゲストに会い興奮していた。
黒衣は祖父、祖母のことについて尋ねた。 「おじいちゃんは死んじゃった」とアーネストは言った。 「そう?ごめんなさい!で、おばあちゃんには会えるかしら?」黒衣が聞いた。アーネストは興奮して「うん、連れて行ってあげる!」と言うなり、別の部屋に姿を消したかと思うと、一連の鍵のセットを手に戻って来て誇らしげに、黒衣を外に駐車している新しいフォードF-150へと誘った。 「あなた、いくつなの?」黒衣が尋ねる。 「12」と彼は答えた。 「さあ乗って!」
おばあちゃんルーシーの家は車ですぐのところにあり、バーサの家と同じような長方形の建物。黒衣が外で待つ間アーネストはおばあちゃんに話すために中に入った。かなりの時間が経ち、完璧なまでに着飾った凛としたおばあさんが長女に付き添われて中から出てきた。ルーシーは、ターコイズブルーの飾りがついた美しいエメラルドグリーンのブラウスに、なだらかな長い茶色のスカートの装い。首には繊細なターコイズのネックレス、胸元には大きなターコイズのブローチ、右手首には丸いターコイズの宝石の付いたシルバーブレスレット、左手には3つのターコイズがはめ込まれたシルバーブレスレット。黒衣は彼女が知っている唯一のナバホ語で「ヤタヘー!(こんにちわ!)あなたにお会いできて光栄です!」と自己紹介した。長女は身を乗り出し、ナバホ語でルーシーに訳した。そして「彼女はあなたに会えてうれしい」と言っている、と黒衣に告げた。黒衣は、即興の手話を交えて楽しく会話した後、持ってきたスモークサーモンの箱を取り出し、おばあちゃんにプレゼントした。ルーシーは困惑しているように見え、箱を数回耳の傍で振り、英語で「魚?」と尋ねた。
まもなく、残りの家族のメンバーが何台かの車に分かれて到着し、皆とても親切で歓迎してくれた。数時間前に会ったばかりなのに、もう古くからの友達のように黒衣は感じた。彼女はおばあちゃんの写真を撮っても良いかどうか尋ねた。誰かが直ぐに椅子を持ってきて地面に置いた。ルーシーが座ってスカートを手でなめらかにし写真のポーズをとっている間、ジュースの紙箱を握りしめた一番下の孫が彼女に後からくっ付き離れない。
出発の時が来た。黒衣が車に向かって歩いていると、アーネストは後からやってきて、明日戻ってくるよう彼女に懇願した。と、突然バーサが黒衣を追いかけて家から駆け出してきて、黒衣の手に何かを押し込んだ。骨董の美しいターコイズブレスレット! 黒衣はあまりのことにびっくりしてどうして良いかわからなかった。彼女はそのような貴重な贈り物を受け取りたくない、しかし、それを拒否することは非常に失礼。彼女はルーシー一家にこれほどまで暖かく受け入れられることを期待していなかったし、彼女自身の感情の高まりに無準備だった。感極まり泣き出しそうになった。
黒衣がチルチンビトから遠ざかる、もう太陽は地平線下に沈んでいた。彼女の車は見覚えのない交差点で止まった。『もうイヤダ!』 又迷ったのだ。ここでは地図はまったく役に立たない。彼女はどちらの道をとるか思案した。『一か八か運を天に任せよう!』 ハンドルを道路の1つに向けて回転させ、アクセルを踏んだ。彼女自身の人生の行くてが変わりつつある事に、まだ気付いてはいなかった。