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Ennin's Voyage   Pastel on paper  Akiko Hirano

亀裂

平野明子 & Tim Wong

西暦838年。19回目、そしてそれが最後となる外交使節任務を、藤原常嗣大使は600人以上の使節団を率いて4隻の船で奈良から中国へ渡った。随員団には、役人、学者、禅僧、学生、乗組員が含まれていた。その中に京都の延暦寺で修行を積んだ45歳の禅僧、円仁(死後の名前、慈覚大師)がいた。8-9世紀の中国唐王朝は仏教の黄金時代で、それは又、中国の文学発展の頂点でもあり李白や杜甫のような何百人もの有名詩人が、目がくらむほどの大量の文学作品を生み出していた。円仁は9年間中国を旅し、学び、五台山の仏教センターや首都長安を訪れた。滞在の後半は、新皇帝武宗の仏教敵対政策に耐え忍んだ。西暦847年に日本に戻った円仁は、持ち帰った本や絵画を通して平安時代の仏教に多大な貢献をした。7年後には延暦寺座主に就任した。

円仁は紛れも無く、中国旅行中に、五台山のような山の頂上に建てられた壮大な寺院や廟(びょう)に強く感銘を受けた。彼は延暦寺の支部を設立すべく日本の神聖な場所を探していた。その一つが東北地方の火山岩の断崖に切り立つ山、宝珠山だった。円仁はそこに立石寺(りっしゃくじ)(山寺)を設立した。千以上も続く石段で急勾配の崖を登りつめる、という壮観な設定で有名な寺院。

1689年春、45歳の時、日本の詩人松尾芭蕉は江戸から東北地方への長い行程、2,400キロ、156日の旅に着手した。彼の有名な作品「奥の細道」の中で、7月13日に立石寺に到着した事、そこはよく手入れが行き届き静かである、と記している。彼は山の頂上に上る。寺院は施錠されていた。夏の暑さの中、来場者はわずかで、せみの鳴き声だけが鳴り響いていた。芭蕉は寺院の寂寥と静寂に心を動かされ、この有名な俳句を綴った。

    閑(しづか)さや

    岩にしみ入る

    蝉の声 

2004年秋。旅館の部屋の窓を押し開けた黒衣(くろえ)は、灰色の霧の海しか見えなかった。彼女は古代の立石寺を見るため「山寺」に旅していた。到着した昨日は観光客の大群が山に向う道に行列していた。訪問者で満載の寺院を想像した彼女の心は、静かで穏やかな神聖なる場所から遠く離れてしまった。幸運にも、大型台風が一夜にしてこの地域を襲い、豪雨と強風をもたらした。階下の食堂では、訪問者が悪天候に不平を言いつつ動き回っていた。ほとんどの人は外出を取りやめた。店主が用意した味噌汁、干物、漬物の朝食をとりながら、黒衣は雨が降り注ぐ誰も居ない外の通りを眺めていた。“パーフェクト!”彼女は食事を急いで終え、レインコートを着て山に向った。

 

ひどい雨で、黒衣がふもとの直ぐ傍に立つまで山は姿を現さなかった。長い一連の石段が崖の斜面を急角度で曲がり、霧の中へ消えて行った。彼女は雨の中で鎮座している芭蕉の鋳造像、その横の有名な俳句の碑文に迎えられた。石段を上って行く彼女は、上も下も20メートル先は見えず、まるで終わりの無い宙に浮かぶ階段を上っているようだ。仏教の経典が刻まれた岩壁、菩薩の石碑のある岩の隙間や割れ目を通り過ぎた。はるか上、一見アクセス出来ないような洞窟が、僧侶の修行のために崖のいたるところに彫られていた。廟(びょう)や建造物の総合建物が広がる場所で石段は終わり、最上階は本堂如法堂。龍、獅子、象の木彫りが入り口の木工品を飾り、中国とインドの影響がデザインに現われていた。

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Yamadera   Pastel on paper  Akiko Hirano

雨と霧は一瞬消え、垂直の壁面を蛇行する長く暗い亀裂のある、威圧するような岩の尖塔が姿を現した。その傾斜した頂上には木造の廟(びょう)がまるで白い雲海の中の燈台のように浮かんでいた。雨の中に立つ黒衣は、長い暗黒の線を目で追い、以前に彼女の場所に立った人々の事を想い、橋を掛ける事のできない深淵な時間で隔たれ、畏敬の念を抱き気持ちが奮い立った。彼女は中国から知識を取り寄せるために危険と困難に立ち向かった円仁のこと、そして皮肉にも近年の両国間に漂う敵意について考えた。

雨は正午には止み、灰色の曇り空から時折陽が射し、寺院の地面を照らした。石段を上ってくる声が聞こえた。黒衣は中国唐王朝の詩人、王維の詩を思い出した。

空山不見人

但聞人語響

返景入深林

復照青苔上

 

空山(くうざん)人を見ず

但(た)だ人語の響(ひび)きを聞くのみ

返景(へんけい)深林(しんりん)に入(い)り

復(ま)た青苔(せいたい)の上を照らす

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