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San Estevan de Rey Mission Church

Pastel on paper   Akiko Hirano

アコマ

平野明子 & Tim Wong

西暦1596年7月12日、スペインのガレオン船サンフェリペ号がフランシスコ会の修道士と貨物を積んでアメリカ大陸の新しい植民地、現在のメキシコ、アカプルコに向けてマニラから出航した。船は台風に襲われ甚大な被害を受け、日本に向けて漂流、四国に漂着した。地元の大名、長宗我部氏は外国人に不親切で貨物を没収した。上級乗組員はスペインの植民地帝国を自慢し、その地にキリスト教宣教師を派遣し先住民を改宗させ、続いて征服者を送り植民地を征服した事をほのめかし、大名との交渉に無言の脅威を与えた。将軍豊臣秀吉はその事実を知り、日本に居るフランシスコ会の修道士を逮捕するよう命じた。7ヵ月後、6人のフランシスコ会修道士と日本人カトリック信徒20人が長崎の丘で処刑された(サンフェリペ号事件)。その後数年内に、日本は江戸時代に入り、鎖国令と共に外国との貿易、宗教を厳格に管理し、それが3世紀後にマシューペリー提督が西洋への扉を再び開くまで続いた。

西暦1598年、日本でこのような事件が起きている時期、スペイン国王フィリップ2世は、Santa Fe de Neuvo Mexico(現在のニューメキシコ州)を植民地化するキャンペーンの一環として、ネイティブアメリカンプエブロに対する襲撃を実施するよう、征服者ドンフォアンデオナテに指示した。アコマプエブロは反撃し、12人の侵略者を殺害した。翌年、オナテは大砲で武装した大部隊を率いた。その後に続いたのは恐ろしい大虐殺だった。500人のアコマ男性は、300人の女性と子供と共に殺害された。生き残った者は捕虜になった。刑罰には女性の奴隷制、男性の足又は手の切断が含まれた。プエブロ人はカトリックに改宗する事を余儀なくされ、伝統的な宗教儀式が禁じられた。

 

サンエステヴァンデレイミッション教会はアコマメサの上に建てられた。奴隷となった原住民を使い、40マイル離れたテイラー山から木材を運び、大量の建築材料を急勾配の坂道を登ってメサの上まで運んだ。プエブロの地に建てられたほとんどのミッションと同様に、アコマのミッションも防衛のために建設された。その巨大な建物には司祭の住居も含まれていた。主要な壁の厚さは最大7フィートにも及び、窓やバルコニーは壁面高くに設置された。それは壮大な建築物であったが、それでもこれら全ての防御策は、1680年のスペイン征服に対するプエブロ住民の反乱で、住職の司祭が殺害されるのを防ぐ事はできなかった。

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Enchanted Mesa from Acoma  Photo  Tim Wong

1992年12月26日、黒衣(くろえ)は道路整備員が前日のクリスマスの伝統的な行事(ファラリト)で道の両側に並べられた紙袋とろうそくを拾い集めている、長く続く道を通り過ぎ、切り立つ崖に囲まれ威圧するようなメサに向けて車を走らせていた。メサの上にはスカイシティーとしても知られているアコマプエブロ(ホワイトロックの人々)があった。黒衣はビジターセンターに立ち寄り、他の何人かと一緒にプエブロを訪れた。

 

シャトルヴァンが急勾配で未舗装の道路を経て、ツアーグループをメサ頂上に運んだ。ジェイという名の丸顔の若いガイドが、「人々がここに住んでいることを忘れないでください。彼らのプライバシーを尊重してください」と、ツアーグループに注意を発し、プエブロツアーが開始した。ジェイはあたかも教科書を読んでいるかのようにプエブロの歴史を語りながら、アドビハウス(日干し煉瓦と泥でできた家)がつながる一角にツアーを率いた。彼らは、ドアや窓のない長方形の家の前で立ち止まった。そこには白い木のダブルのはしごが屋根にもたれかかっていた。ガイドのジェイは「この建物は、屋上から入ることの出来る儀式用キバです。他のプエブロで地下に造られたキバを見たことがある人もいるかもしれません。ここの地面は掘りにくいので、私達のキバは地上に建てられたのです」と、説明した。黒衣ははしごの後ろの壁に穴が開いているのに気づき、ジェイに尋ねた。彼はちょっと驚いたようで、一瞬ちゅうちょし、「私達の伝統で、女性はキバに入らず、穴を通して中の男性とコミュニケーションをとります」と、応えた。周囲の‘国々’を見渡し、威圧するかのように建つ、高く巨大な教会の前の低い土壁に囲まれた墓地で、ツアーは終了した。

 

多くの先住民(アコマプエブロインディアン)が教会の外に集まっていた。ウールの毛布にくるまった女性、焚き火の周りに座っている年配の男性、空気はジュニパーの煙の芳香で満ちていた。彼らは何かを待っているようだ。突然、教会の重厚な木の扉が開いた。人々は教会の中に流れ込み始めた。黒衣も後に続いた。内部は、部屋の周囲に並ぶ2列の折りたたみ椅子以外何もない。長老達は椅子を見つけ、部屋の中央を向いて座った。黒衣は椅子の後ろ側に押し入り、他の人達と一緒に壁にもたれて立った。更に人々が中へ流れ込み、ある人は部屋の向こう側の親戚や友人達に手を振り、幼い子供達は部屋の真ん中の床で遊んでいた。黒衣は隣に立つドイツ出身の白髪の女性と会話を始めた。どちらも何が起こるか知らなかった。黒衣は周りを見回し、祭壇が古いキリスト教の宗教画で飾られているのに気付いたが、壁には彼らインディアンのシンボル、トウモロコシや雨雲の絵が描かれていた。長時間立ちっぱなしで寒さを感じた彼女は、両腕を胸にしっかりと押し付けた。

 

その時だった。彼女はどこからともなく、かすかな軽やかでリズミカルな音が流れてくるのを耳にした。音は次第に大きくなり近づいてきて、リズミカルな太鼓の音と詠唱が加わった。突然、部屋に耳をつんざくような太鼓の音(ドン、ドン)が響き渡り、歌い手が詠唱しながら入り口から行進してきた。青とターコイズ色模様が入った白い革のスカート、孔雀と鷲の羽、ピンクとオレンジ色の菊で飾られた儀式用の服を着た男性の踊り手が2列で流れ込んできた。白、グレー、又は茶色のキツネの皮をまとった人もいた。続いて、カラフルな縁取り模様の美しい白いドレスを着た女性達、腕と足首に付けた銀の鈴がダンスのテンポで揺れ動く。踊り手の動きは調和し、腕を揺さぶり、太鼓の音に合わせて足を踏み鳴らし、部屋を一方向、そして逆方向へと回った。その雰囲気は感動的で、観客は魅了された。踊りは長時間続いた。午後の陽射しが高い窓を付き破り、座っている年老いたインディアン女性がまとっている衣服に色とりどりの‘走り書き’を投げかけ、照らし出された顔はまるで夢幻の世界にいるように見えた。黒衣は目を閉じ、教会が建てられるずっと以前、コロンバスが新世界に向けて出航する前の時代に遡った。

 

太鼓と踊りが突然止まった。と、同時に黒衣は我に返った。踊り手は沈黙の中で教会から出て行った、ストイックな表情で。観客は依然静かで、敬意を表し、誰も動いたり拍手したりすることなく、ただ唯一、踊り手の銀の鈴の音が次第に消え去るだけだった。これはショーではなかった。これは儀式であり、何世紀にもわたる外部の干渉と抑圧に彼らの古代文化は耐え忍んできた、という確約だったのだ。

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Rectangular kiva with double-ladder 

Pastel on paper   Akiko Hirano 

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