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Dorothy   Pastel on paper   Akiko Hirano

ドロシー
平野明子 & Tim Wong

「すみません、黒衣(くろえ)さんですか?」 後ろから追っかけて来た女性が尋ねる。

黒衣は振り返り「そうですが。。。以前にお会いしたことありました?」

「そうじゃないんですが、貴女の事は聞いていました。 私はドロシーの友達で、彼女はよく貴女のことを話していました。」

「ああそうですか、ドロシーはどうしていますか? しばらく彼女に会っていません。」

「彼女、去年の10月に亡くなりました。」

「そうだったのですか。。。ごめんなさい。私、ほぼ毎週彼女にばったり会い、一緒に歩きました。最後に彼女を見たのは、彼女が雪の中を歩いて家に帰る時でした。 彼女、とても弱弱しく見えました。」

「きっと去年の2月前に違いないです。 それ以来、彼女はほとんど家に閉じこもっていました。 私は彼女の世話をしていました。私達はいろんなことを話し合いました。 彼女はとても興味深い人生を送ったのです。 彼女が上海生まれだという事ご存知でしたか?」

「本当に?それ、どういうこと?」

 

「彼女はあなたに言いませんでしたか? 長い話です。 ドロシーの両親はシカゴ出身のプロテスタントの宣教師でした。 彼らは第一次世界大戦前、中国がまだ清王朝の時代に上海に行きました。 ドロシーに英語教育を受けさせるため、両親はドロシーをプロテスタントの寄宿学校である中国北部の芝罘学校に通わせたのです。 卒業後、彼女は両親の伝道活動を手伝うために上海に戻って来ました。それまでに清王朝は崩壊し、中国は共和国になりました。ドロシーが言うには、当時、上海は華やかで退廃的で犯罪に満ちた“東洋のパリ”として知られていたそうです。 若い女の子にとっては良い場所ではありませんでした。 ビジネスマンや暴力団がひいきにするナイトクラブへ友達と行き、彼女はよく叱られました。国は当時、活動家が頻繁にストライキや暴動を組織したため、市民の不安に悩まされていました。 最後の付加は 1927 年に訪れました。蒋介石が率いる民族主義者が上海で血なまぐさい粛正を行使し、何千人もの「急進派」を路上で処刑しました。 彼女の両親はすっかり嫌気がさし、ドロシーを南京に移り住むよう手配しました。 彼女が丁度21歳になった時です。」

 

「とても恐ろしい時期だったに違いありませんね。彼女は南京で何をしていたのですか?」

「宣教師の友人の紹介で、金陵女子学院で英語を教える仕事に就きました。 最初は単なる一時的なアシスタントのような仕事でしたが、流暢な英語と中国語を話せる彼女が素晴らしい人材であることに学校はすぐに気付きました。」

 

「それは理にかなっていますね。 で、彼女はどうしてサンタフェにたどり着いたのですか?」

「それもまた長い話です。 1937年に日本が中国に侵攻した時、その大混乱の中、ドロシーは両親との連絡が途絶えました。母親は上海の爆撃中に殺されました。父親は、後に多くの外国人とともに収容所に入れられました。上海が陥落した後、日本軍は南京を攻撃しました。 ドロシーの学校は難民キャンプ施設となり、何千人もの中国人を南京大虐殺から救いました。 彼女は、中国西部の成都への長い危険な旅をして逃げました。 そこから南下して広州、そして最終的には香港へと旅をしました。」

 

「ワー! それでは彼女は父親から完全に切り離されたのですね。」

「そうです。 彼らは戦争終了後まで二度と会うことはありませんでした。」

「香港で彼女に何が起こったのですか?」

「ドロシーは、香港から船で 1 時間のところにある、長洲と呼ばれる小さな島にあるプロテスタントの包領に避難しました。 当時、長洲 はイギリス人およびアメリカ人の外国人のために法律で保持されていました。 彼女はそこは安全だと思ったのです。 そこまで戦争がやってくることを彼女に知る由はなかったのです。 1941 年 12 月、日本が真珠湾攻撃を行った翌日、日本軍は香港を攻撃しました。 街は数日で陥落しました。 今回は逃げ場がありません。ドロシーは何千人もの「敵国民」(イギリス人、アメリカ人、男女、さらには子供たち)と共に徴収され、香港島のスタンリー収容所に収容されました。 1945年に戦争が終わるまで、彼女は収容所の外に出ることはありませんでした。その間の両親の運命は、彼女は知りませんでした。」

「アー…知らなかったわ! 彼女はこれらすべての事について私には一言も話しませんでした。 戦争の愚かさと残酷さ。 そして、我々人間はその中から決して学ぼうとしないのよね。 彼女、再度お父さんには会えたの?」

「はい、戦後、二人ともアメリカに帰り、 お父さんは牧師になりました。 ドロシーは、メリーランド州のセント ジョンズ カレッジで図書館員の仕事を見つけました。 1964 年に新しいセント ジョンズ キャンパスがサンタフェに開設された時、彼女はここに転勤し、定年まで働きました。 生徒たちは彼女のことが大好きでした。 彼女はよく、好きな科目である中国古典文学を学生達に指導しました。」

「そうだったのね! そういえば、美しい野バラが咲く家の前を歩いていた時のこと、 地面は前夜の暴風雨で吹き飛ばされた花びらで覆われていたの。ドロシーが突然、完璧な北京語で詩を暗唱したときの私の驚きを想像してみて:イエライフォンユション ファーロチュテユシャ **   私は彼女がそれをどうして学んだか尋ねました。 彼女はただにっこり笑って"マジック“(魔法)と言っただけです!」

「まさに、彼女はそういう人でした。」

** この漢詩の最後の二句

春眠不覺曉,處處聞啼鳥
夜來風雨聲,花落知多少  

- 孟浩然

 

夜明けを知らず春に眠る、 至る所で鳥がさえずる

昨夜の風雨の音 、いくつの花が散ったことか

- 孟浩然 (689-740)

Shrub Roses on Adobe Wall

Pastel on paper   Akiko Hirano   

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